郷土の歴史

更新日:2023年03月01日

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郷土の歴史-古代

つくば市内には、縄文・弥生時代の遺跡が多数あります。縄文時代の中期ごろには、大きな河川に沿って海水が内陸に入り込み、この辺りにも浅い海がありました。市内にはそれを示す田倉貝塚などの貝塚が残っています。

農耕が伝播してくると権力者が現われます。彼らは大和朝廷と結びついて古墳を作りました。市内でも約200基ほどの古墳が確認されていますが、県指定遺跡の八幡塚古墳はその代表的なものです。全長91メートル、6世紀前半に作られた前方後円墳で、阿閉色命(あべしのみこと)の墓と推定されており、近くの八幡池からはまげを結った女性のはにわが見つかっています。

大化の改新(645年)により、高、久自、仲、新治、筑波、茨城の6国が常陸国として統合され、つくば市はそのうちの筑波郡となります。
市内平沢にはこの筑波郡の役所と推定される遺跡があり、国の史跡に指定されています。また、平沢の近くの北条には、3キロメートル四方に及ぶ当時の条理制の遺溝が残っています。さらに、正倉御物の中にみられる筑波郡から納められた麻、万葉集の中の筑波から派遣された防人(さきもり)の歌などからは、当時の律令国家に組み込まれていったこの辺りのようすがうかがえます。

その後、徐々に律令制が解体していく中で、平将門の乱が起こります。これは10世紀前半、筑波山麓に栄えた平氏一族の内紛に周辺武士の勢力争いがからんだもので、平将門は一族の貞盛に敗れます。この承久・天慶の乱を契機に武士団が台頭し、やがて中世が幕を開けます。

平沢官衙遺跡を外から見た写真

国指定文化財・史跡 平沢官衙遺跡

平沢官衙遺跡について

古代に筑波郡の、郡役所があったところと推定される平沢官衙遺跡。付近に古代の土地区画法がよくわかる、約3キロ四方の条里遺構も残っています。

郷土の歴史-中世

小田城址の上空からの撮影写真

国指定文化財・史跡 小田城跡

つくば市の小田にあった小田城は、鎌倉時代から戦国時代末まで、この地方に勢力を張った小田氏の居城で、特に南北朝時代に南朝方の関東における拠点として名高い城です。

本丸の周りには数多くの曲輪・土累・堀が複雑に組み合わされ、波紋のように広がっており、全体が本丸防御のための構成であったことがわかります。

鎌倉時代になり、有力御家人宇都宮氏の一族八田知家(はったともいえ)は常陸国の守護職に任じられ、市内の小田に本拠を置きます。

そして八田氏の総領家は小田姓を名乗り、戦国時代に佐竹氏に敗れるまで小田を本拠地としてこの辺りを支配します。かつての筑波鉄道小田駅の近くには、今も小田城跡が残っています。本丸部分にはわずかな塚が残るのみですが、堀跡はかなり広範囲に及び、小田氏の勢力の大きさを物語っています。

また、小田城跡から少し離れた山裾には、小田氏の擁護のもとで西大寺系律宗の僧侶忍性(にんしょう)が布教を行った三村山極楽寺の跡があり、ここには関東でも有数の巨大な五輪塔が残されています。

石造地蔵菩薩立像の写真

県指定文化財・彫刻
石造地蔵菩薩立像

さらに寺跡へ至る道沿いには「湯地蔵」といわれる石造地蔵菩薩立像があり、背後の宝鏡山の頂きには県指定文化財となっている宝篋印塔(ほうきょういんとう)があり、どれも当時の律宗の活動と深い関わりがあるといわれています。

鎌倉時代末に常陸守護職を佐竹氏に奪われた小田氏は、南北朝の戦いが始まると、南朝につきます。

南朝方は旗色悪く、再起をかけて東国に下ってきた北畠親房は小田氏を頼って小田城に身を寄せ、南朝方の武将に決起を促す手紙を書き続けました。しかし援軍は来ず、後醍醐帝も亡くなってしまい、親房は小田城内で「神皇正統記」を執筆します。

やがて小田氏も持ちこたえられず北朝方に帰順し、北畠氏は関城に落ち伸びていきます。小田氏は足利幕府の御家人となり、城と領地を安堵されました。

室町時代、関東には上杉禅秀の乱、永亨の乱、結城合戦など戦乱が続き、小田原北条氏と同盟を結んだ小田氏は常陸北部を根拠地としていた佐竹氏に攻められ、手這坂の合戦で敗北し、城を明け渡します。佐竹氏は豊臣秀吉によって常陸国大名となり、小田城には梶原政景が入ります。

郷土の歴史-近世

関ヶ原の戦いの後、佐竹氏は出羽(秋田県)に移され、佐竹氏が築いた水戸は徳川御三家の支配するところとなりました。家康の江戸入府後、茨城地方では目まぐるしく領主が交代し、その支配も藩領、天領、旗本の知行地などが入り乱れていました。市内では幕府が倒れるまで独立した藩として存続したのは谷田部藩だけです。

江戸時代、谷田部には飯塚伊賀七という発明家が生まれ、和時計やからくり人形、機械、建築物などを設計して作りました。

あの有名な「がまの油」の口上ができたのも、百家の竜水万灯祭が始まったのもこの時代です。戦国時代に比べれば、乱暴・狼藉・焼き討ちなどが治まり、安定した世の中になって、庶民文化が花開いたといえます。

利根川や小貝川などの水運が発達し、水戸街道、筑波街道、小張街道、細川街道などが整備され、主な街道には並木が植えられました。谷田部地区には、平成13年(2001年)1月まで、県指定文化財の谷田部不動松並木が残っていました。

江戸時代末期、幕藩体制の経済的行き詰まりに、開国による経済混乱が追い討ちをかけると、尊王壌夷論が高まりを見せます。

なかでも水戸藩士らは桜田門外の変を起こしただけでなく、元治元年(1864)に筑波山で挙兵し、常総地方一帯を巻き込む「天狗党の乱」を引き起こしました。これは水戸藩によって鎮圧されましたが、尊王壌夷運動はしだいに討幕運動に形を変え、やがて幕府は崩壊し明治新政府が成立します。

五角堂と和時計の写真

県指定文化財・史跡 五角堂と和時計
江戸時代後期、珍しい発明で「からくり伊賀七」の異名をとった飯塚伊賀七の設計による。正五角錐の建物。伊賀七が造った大時計の復元が谷田部郷土資料館に設置されています。

郷土の歴史-近現代

明治になると、新政府は徳川家の領地を引き継ぎます。この辺りでは、常陸国内などの旧天領や旗本知行所を管轄する若森県の県庁が現在の大穂地区に置かれました。

さらに明治4年(1871)に廃藩置県が実施され、本市は新治県となり、明治8年(1875)には茨城県に統合されました。

そして明治22年(1889)に市制・町村制が施行され、現在の市域には筑波町、北条町、田井村、田水山村、小田村、菅間村、作岡村、上郷村、旭村、小野川村、真瀬村、島名村、葛城村、谷田部町、大穂村、栗原村、九重村、栄村などが誕生しました。

その後、日清日露戦争、第1次世界大戦を経て帝国主義に走った日本は第2次世界大戦に突入します。

昭和20年(1945)、この戦争で今までにない大きな犠牲を払って敗戦を迎えた日本は、農地解放、日本国憲法の制定など、民主化への道を歩き始めました。

昭和28年(1953)町村合併促進法が成立し、その後前記の町村は筑波町、大穂町、豊里町、谷田部町、桜村の5町村に統合されました。

昭和38年(1963)、筑波研究学園都市の建設が決定し、筑波町、大穂町、豊里町、谷田部町、桜村、茎崎村に建設することになりました。

昭和60年(1985)、筑波研究学園都市で科学万博が開催され、昭和62年(1987)11月には大穂町、豊里町、谷田部町、桜村が合併してつくば市が誕生します。翌年1月には筑波町も編入し、水戸市、日立市に次ぐ県下3位の人口を持つ都市となり、現在も発展を続けています。

郷土の歴史-科学万博つくば85'

科学万博つくば85’会場の夜の写真

昭和60年3月17日~9月16日までの184日間にわたり、筑波研究学園都市で、「人間・居住・環境と科学技術」をテーマに総額6,500億円を投じた「科学万博つくば85’」が開催されました。

開会式では、名誉総裁の皇太子殿下(当時、現上皇陛下)が「ここを訪れる人々は、人間と科学技術のかかわり方についてさらに考えを深められるでしょう」と大会宣言されました。

科学の街つくばで開かれた万博は国内機関によって28のパビリオンが設けられ、海外からも47ケ国、37国際機関が出展するという、世紀の祭典となりました。

会期中の入場者数も、のべ2,000万人を超え、一日平均11万人という盛況ぶりで、これにより筑波研究学園都市を国の内外に広くPRしたという点でも大きな成果がありました。

いばらきパビリオンの会場の写真

いばらきパビリオンでは、茨城らしさを表現し、筑波山の男体、女体をかたどったパビリオンを建て、館内には学園都市の最先端技術を展示するなど、茨城の今の素顔を紹介しました。

皇太子殿下(当時、現上皇陛下)ご夫妻もいばらきパビリオンほか、つくば博ををご覧になられ、最新科学を満喫されたようです。

市の歴史

つくば市年表をご覧ください。

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